五章「いつか全てが上手く行くなら、涙は通り過ぎる駅だ」後編

 
「君を北極星に連れて行きたいんだ」
 自分にそっくりな男が言う。それは何故か希望に満ちた言葉に聞こえてキーボードを叩く手を止める。しかしそれも一瞬で、騙されては駄目だとその言葉を頭から振り払う。これが彼らの手口なんだと自分に言い聞かせ、机の上の抗精神病薬の錠剤を二粒飲み込む。これで暫くすればこの幻覚も消えてくれるはずだ。
 そのお陰かトマーゾそっくりな男は、鴨居にぶら下がった首吊りロープを邪魔そうに手で払いのけて、部屋を出て行った。
 だが、トマーゾの友人は未だ居座っている。こんな事は初めてだった。トマーゾは恐怖にかられ全身から汗が滲み出すのを感じた。
 そしてトマーゾの友人がおもむろに話し始める。

「君は過去にとらわれているんだ」
 トマーゾは手を止める。いつも台本があるかのように同じ事を話し、同じ行動をしては消えていく幻覚が、何故か今日に限っては違う言葉を話しだす。ただでさえ恐ろしい幻覚が、決まった行動をするからこそ、なんとか塞き止められていた恐怖。それが、いよいよ決壊してトマーゾに襲いかかる。
 それでも何か使命のようなものを感じたのは、もう二度と会う事が出来なかったはずの友人の声だったからかもしれない。
 怖々振り返ると、懐かしい友人が微笑んでいた。
「ここに居ちゃ駄目だ」
 動悸がおさまるのを感じる。優しい言葉をかけてくれるかつて友人に、懐かしさと涙が込み上げる。
 友達の少ない口下手なトマーゾをいつも遊びに誘ってくれたのだった。物知りで頭がいいから、困った事があれば何でも相談に乗ってくれた。いつも正しい事を言うのだ。それが気に食わなくて喧嘩もした。けど後になってやっぱりあいつが正しかったって、いつも思うのだ。
 嗚咽するトマーゾを悲しそうな顔で見つめながら、友人は部屋を出て行った。
 静寂が戻り、トマーゾは自身の嗚咽だけを聞いていた。薄暗い部屋に散らばった記憶の欠片を見渡す。こんなものにどれほどの価値があるというのか。

「ここに居ちゃ駄目だ」
 トマーゾは友人の言葉を繰り返し、立ち上がる。足音を立てないように部屋を出て、明かりを付けず、家族に気取られないように玄関に向かう。

 二年ぶりだろうか。もう二度と自ら開ける事はないと思っていた玄関のドアノブに手を伸ばす。涙を拭い震える手で玄関の扉をゆっくり開く。
 午前二時過ぎの町は静かで、遠くに車の音が聞こえるだけだった。空気は幾分涼しかった。植物の青臭い匂いが懐かしいとすら感じられた。夜空は満天の星を湛え、昔と変わらずそこにあった。トマーゾはこぐま座を探す。こんな事するのは子供の時以来だな、と思う。北極星は一年中動かないから旅の目印に使われるんだと教えてくれたのも友人だった。

 その時、空を裂いて一筋の光が遠ざかるのが見えた。夜空を飛ぶ列車だった。薬がまだ効いてないな、とトマーゾは思った。

 夜の向こうに何があるのか、トマーゾはそれを知りたかった。

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