一章「情熱、希望なんでもいいけど、僕らはここに居ちゃだめだ」後編

 
 小屋の中は薄暗い。鴨居にぶら下がる植物の茎と、湿気をはらんだカビの匂い。床の上にはペットボトルや食べかけのパン、ヘルメットや脱ぎっぱなしの服、色のついた眼鏡などが散乱している。その隙間からかろうじて畳がうかがえ、和室である事に気付かされる。タンスの上にある花瓶に生けたビヨウヤナギの花が、生気なくうな垂れていた。

 二人が暗闇に慣れるまで慎重に目を凝らしていると、部屋の角にある机の前に男が座っている事に気付く。どうやらパソコンに向き合っているようだ。
 机の上にはCDケースや文庫本が積み重ねられていた。錠剤のような物も散らばっている。
 二人はゆっくりと足を進め、男の顔を覗き込もうと近づいた。

 ディスプレイの明かりに照らされた男の口はだらしなく開き、両目からはビヨウヤナギの黄色い花が咲いている。キーボードをたたき、何か文字を一心不乱に打ち込んでいる様子に二人はたじろいだ。背格好はトマーゾと瓜二つだったが、やせ細った首や掌はまるで年老いた枯れ木のようだ。

「迎えに来たよ」
 と、トマーゾは話しかけるのだが、ビヨウヤナギの男は反応しない。

 ヨハンは彼の下半身を指差し「もう手遅れみたいだね」と言った。ビヨウヤナギの男のくるぶしから根っこが生えていて、畳の腐った穴ぼこにしっかりと根付いているようだ。

「君を北極星に連れて行きたいんだ」
 トマーゾがもう一度語りかけると、ビヨウヤナギの男はキーボードを叩く手を止めた。
 一瞬言葉が通じたかに思えたが、おもむろに机の上にある錠剤を口に放り込んだだけで、またパソコンに向かって文字を打つ作業を再開した。
 こちらの声は届いていないのだろう。やはり手遅れか、とトマーゾは落胆した。

 この男が自分自身だという事にトマーゾは気付いていた。北極星を目指し、星を巡る旅は、過去を巡る旅なのだ。自分の記憶に虫食いみたいにぽっかり空いた仄暗い穴を、トマーゾは苦々しく眺めた。
 この部屋に飽和する、目を逸らしたくなるような嫌悪感は、過去にトマーゾが経験した失望や諦め、そして自暴自棄だ。もがく度に足を絡めとられ、抜け出せなくなった泥沼。そして遂には泥沼をのんべんだらりと泳ぐ事でしか自尊心を保てなくなった男が、今も尚、僅かな生への執着を捨てきれないでいる。

 トマーゾは重苦しい気持ちになってきびすを返す。ヨハンの幼い目は何か言いたげに、じっとビヨウヤナギの男を見つめていた。トマーゾは構わず玄関に向かう。ぶら下がった植物の茎を手で払いのけ、一人外に出た。

 アンタレスの紫色の空は、暗澹たるトマーゾの気持ちと妙に釣り合った。やっぱり夜なのだとトマーゾは思った。
 遅れてヨハンが部屋を出てくる。お待たせ、と小さく呟いて「次へ行こう」とトマーゾを促した。

 夜の向こうに何があるのか、トマーゾはそれが知りたかった。

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